季節が巡り、2026年の春が来た。 父がこの世を去ってから丸2年。
そして、私が癌を患ってから、10年と少しの月日が流れた。
最近、ふとした瞬間に考えることがある。 **「私が癌になったことを、父に伝えないまま見送ったことは、果たして親孝行だったのだろうか」**と。
もしあの時、すべてを伝えていたなら。私たちの関係や、今、私の目に映るこの景色の色は、何か変わっていたのだろうか。
寡黙だった大工の父
私の記憶にある父は、常に寡黙な大工だった。
外に出せない言葉の代わりだったのか、父は短気で、一度火がつくと手がつけられないほど怒鳴り散らした。 仕事に行くふりをしてはパチンコに耽り、父の車にはいつもパチンコ玉が転がっていた。
休日は小学校低学年の私を車に乗せて、隣町のパチンコ店へ向かう。私は狭い車内に一人残され、父が戻るのを2時間以上も待ち続けた。戻ってきた父は、決まって不機嫌だった。 暴力こそなかったが、あの逃げ場のない車内は、幼い私にとって紛れもない「地獄」だった。
記憶の底にある、父の涙
けれど、そんな父の記憶の中に、どうしても忘れられないもう一つの景色がある。
幼い私が高熱を出した時のことだ。父は私を乗せ、車で30分かかる病院まで必死に走らせた。 ふと見上げた運転席。そこには、いつも頑固で短気で、とんでもなく怖かった父の姿はなかった。
父は、目にいっぱいの涙をためていた。 まるで、私がこのまま死んでしまうのではないかと、本気でおびえているような顔だった。
パチンコ店の駐車場に私を置き去りにしたのも、涙目になって私を病院に連れて行ってくれたのも、同じ父なのだ。
隠し通した「癌」という親孝行
そんな父に対し、私は最後まで「自分の病」を伏せ続けた。 父が亡くなるその瞬間まで、娘が癌であることを、彼は知る由もなかった。
「知らせなくてよかったのだ」 「それが、親に余計な心労をかけない、最後の親孝行だったのだ」
そう自分に言い聞かせる。しかし、心の澱(おり)は消えない。 もし伝えていたなら、父はあの病院へ向かう車の中のように、私のために涙を流してくれただろうか。
あるいは、あのパチンコ店の駐車場での沈黙のように、自分を追い込み、さらに心を閉ざしてしまっただろうか。
今となっては、それを確かめる術はどこにもない。
正解のない問いの先にあるもの
医療の現場で戦う人々、病と共に生きる患者、そしてその帰りを待つ家族。 病を「伝えるか、伝えないか」という問いに、唯一無二の正解など存在しない。当事者になって、その重みを痛感している。
父に伝えなかったことは、私の優しさだったのかもしれない。あるいは、これ以上父との関係で疲弊したくないという、自己防衛だったのかもしれない。
2026年の今も、私は答えを出せずにいる。
けれど、地獄だと思っていた車内の沈黙も、足元に転がっていたパチンコ玉の音も、そしてあの夜、父が見せた涙も。それらすべてが「私の父」という、不器用で矛盾した一人の人間だったのだと、今は静かに受け入れ始めている。
それが親孝行だったのか、あるいは不孝だったのか。 その答えは、もっと先の未来、私が父と同じ場所へ辿り着いた時にしか分からないのかもしれない。
今はただ、春の風を吸い込み、伝えられなかった言葉たちを自分の一部として抱えて生きていく。