抗がん剤と心の崩壊
抗がん剤治療は、想像していた以上に過酷なものだった。
今振り返れば、よくあの時間を乗り越えられたものだと思う。
十年以上が経った今だからこそ、そう思えるのかもしれない。
当時の私は、ただ必死だった。
腫瘍内科の奥にある抗がん剤治療室。
カーテンで仕切られたスペースの中には、リクライニングができるマッサージチェアのような椅子が置かれていた。
目の前には小さなテレビモニターもある。
そこに横になり、約二時間、点滴で抗がん剤を体に入れていく。
一見すると落ち着いた空間だった。
けれど、その場所には独特の緊張感が漂っていた。
私にとって何よりつらかったのは、
周囲の患者さんたちには、ほとんど必ず家族の付き添いがあったことだった。
夫や妻、子ども、親。
誰かがそばに座り、静かに声をかけている。
その中で、私だけが一人だった。
看護師さんたちはそれを気にしてくれて、
ときどきそばに座って声をかけてくれることもあった。
その優しさが、ありがたくもあり、同時に少し切なくもあった。
抗がん剤投与の時間
抗がん剤は、投与した瞬間から苦しくなるわけではない。
むしろ、その時間は比較的静かに過ぎていく。
私の場合、抗がん剤の影響で爪にダメージが出る可能性があったため、
両手足の指先に冷たいパッドを装着して治療を受けていた。
指先を冷やし、薬の影響を少しでも抑えるためだ。
ただ、その状態ではほとんど手を動かすことができない。
あるとき、ふいに涙があふれてきたことがあった。
理由は自分でもはっきりしない。
不安だったのか、孤独だったのか、それともただ疲れていたのか。
けれど、指先は冷却パッドで固定されている。
涙を拭くこともできなかった。本当はこんな時に近くに誰かいてくれたらと心細くなった。
支えになったのは、小谷家の子供が書いてくれた絵。
モニターに張り付けて抗がん剤に挑んだ。

治療後の小さな習慣
抗がん剤治療が終わると、私はいつも決まって回転寿司に立ち寄った。
決まって3皿を喫食。
抗がん剤投与からは数日間ははほとんど食べられなくなる。
だから、その前に少しでも食べておこうと思ったのだ。
とはいえ、体力はかなり落ちていた。
ある日、席に座ってお茶を入れようとしたが、
湯のみを押し当ててもなかなかお湯が出ない。
力が足りないのだ。
その様子を見ていた隣のスーツの男性が、
黙ってお茶を入れてくれたことがあった。
ほんの小さな出来事だったけれど、
そのときの優しさは今でも忘れられない。
朝まで船酔いのような感覚の副作用
本当の副作用は、夜になってから始まる。
吐き気、強い倦怠感、体の痛み。
頭に微弱の電流を流され続けるような感覚。
船酔いのように眩暈が続く。これがいっぺんに来るのだ。
ベッドから起き上がれなくなることもあった。
味覚もほとんどなくなっていた。カレーライスも味がしない。
食事をしても味がわからない。
それでも、私は料理を見ながら想像していた。
きっとこれは、こういう味がするのだろう。
そう思い出しながら食べていた。
楽しんでいたというより、
そうでもしなければ食事ができなかったのだ。
食欲はなくても、体力は必要だった。
病気に負けないためには、
どうにかして食べなければならなかった。
facebookへの書き込みで失った友人関係
抗がん剤治療で一番つらかったのは、
体の痛みよりも心の揺れだったのかもしれない。
ある日、フェイスブックにたった一言書いてしまった。
「癌になってない人はいいな。」
その言葉を見た、十年来の友人からメッセージが届いた。
「こんなん書いて、何が楽しいんや」
「周りで必死に支えようとしてる人たちに対して、
これはあかんのちゃうか。」
その通りだった。
私はすぐに投稿を削除し、友人に謝った。
けれど、その友人とはそれ以来、連絡は取れていない。
連絡先をブロックされてしまったのだ。
当時の私は、
怒りや悲しみのぶつけどころがわからなくなっていた。
看護師さんに冷たい態度を取ってしまったこともある。
完全な八つ当たりだった。
子どものようだったと思う。
それでも続けた理由
それでも私は、治療をやめなかった。
もう普通の生活には戻れないのではないか。
そんな恐怖を感じることもあった。
体は傷だらけ。
子どもを持つこともできないかもしれない。
こんな自分を、この先誰かが必要としてくれるのだろうか。
そんなことを、ぼんやり考える夜もあった。
それでも、私はバイオリンのレッスンだけは続けていた。
20代前半の先生だったけれど、
音楽に対する情熱がとても強い人だった。
二度目の手術の前のレッスンの日、
先生はこう言ってくれた。
「必ず生きて帰ってきてくださいね」
その言葉は、私にとって大きな支えになった。
人の優しさ
治療費の問題も常に頭の中にあった。
少しでもお金を節約しようと、処方箋を調整しようとして
副作用があるのに「大丈夫です」と医師に嘘をつく事もしばしば。

今思えば、かなり無理をしていたのだと思う。
交通費を節約するため、
一駅分歩くこともあった。
高額医療制度の手続きをしに市役所へ行ったときのことも忘れられない。
※2015年当時は紙製の保険証を発行される仕組みだった
対応してくれた女性は、私と同じくらいの年齢だった。
事情を説明していると、
その女性は突然涙を流した。
「もし自分が同じ立場だったら、
立ち直れないかもしれません」
その言葉に、私は胸が熱くなった。

