第一章 「オーストラリアでの突然のがん宣告」

第一章~第六章【闘病の基本のストーリー】

その一言から、私の人生は大きく動き始めた。

海外で新しい人生を始めたい

オーストラリアへ向かう飛行機の窓の外には、どこまでも続く雲の海が広がっていた。
その景色を眺めながら、私はこれから始まる人生のことを思っていた。

胸の奥にあったのは、不安よりもむしろ期待だった。

私は少し複雑な家庭環境の中で育った。
だからだろうか、ずっと心のどこかで願っていたことがある。

生まれ育った場所とはまったく違う世界で生きてみたい。
海外で暮らし、自分の好きなことをしながら、新しい人生を築いていきたい。

それが、私のささやかな夢だった。


海外への憧れが生まれたきっかけ

海外に強く惹かれるようになったのは、二十代前半の頃である。
当時、私は大手企業に勤めていた。生活は安定していたし、収入にも不満はなかった。

仕事では英語を使う機会もあり、外国の文化や価値観に触れるたび、想像が広がっていった。

海外では、どんな人たちが暮らしているのだろう。
どんな人生が待っているのだろう。

そんな思いが少しずつ膨らんでいった。

貯めたお金で、カナダへ一週間ほど旅行に出たことがある。
そのとき目にした景色は、今でもはっきり覚えている。

広い空。
ゆったりと流れる時間。
そして、どこか自由な空気。

まるで映画の中に入り込んだような感覚だった。

「いつか海外で暮らしてみたい」

その思いは、帰国してからも消えることはなかった。


ワーキングホリデーという選択

その後、私は何度か一人で海外旅行を重ねた。イギリス、ジャマイカ、フィジー、ベトナムや台湾など。
気がつけば二十代も後半に差しかかり、ワーキングホリデーの年齢制限も迫っていた。

迷いはなかった。

人生を変えるなら、今しかない。

そう思い、私はオーストラリアへ渡る決意をした。


メルボルンでの充実した日々

メルボルンでの生活は、想像以上に充実していた。

私は二つの仕事を掛け持ちしていた。
一つはフレンチレストランでのウェイトレス。
もう一つは、ストリートアーティストとして絵を描く仕事だった。

子どもの頃から絵を描くことが好きだった私は、メルボルンで正式な許可を得て、路上で絵を描き販売していた。

通りがかった人が足を止め、作品を眺めてくれる。
そして、気に入ってその場で買ってくれることもある。

そんな瞬間が何より嬉しかった。

生活費には困らなかったし、むしろ少しずつお金も貯まっていった。
将来の進学資金にもなるはずだった。


世界中の友人たち

友人も自然と増えていった。

現地のオーストラリア人はもちろん、北米やヨーロッパ、アジア圏から来ている人たち。
国籍も文化も違うのに、不思議とすぐに打ち解けることができた。

私は一戸建ての家で、オーストラリア人の女性(ジュリー)と一匹の猫(スキャリー)と暮らしていた。

一緒に料理を作り、出かけ、他愛ない話をする。
そんな日常が、心から楽しかった。

スキャリーは17歳であり、出会った時点で重い肝臓疾患を患っており、入退院を繰り返していた。後にジュリーと、ジュリーの恋人、そして私はスキャリーを看取る事となった。

愛に包まれながら、天国へ旅立った。

音楽との出会い

その頃、私は音楽にも挑戦していた。

まず始めたのは歌のレッスンだった。
発声や表現を学び、練習を重ねていく。

そして一度だけ、小さなライブで歌を披露する機会にも恵まれた。

大きな舞台ではない。
それでも人前で歌えたあの時間は、今も大切な思い出として残っている。

やがて音楽への興味はさらに広がり、ある日楽器店で一台のバイオリンに出会った。

迷った末に購入し、レッスンに通うことにした。
教室までは片道二時間の道のりだったが、その時間さえ楽しみに思えた。


体の異変

そんな日々の中で、ふと体の異変を感じるようになった。

一緒に暮らしていたジュリーにそのことを話すと、
「念のため病院で検査を受けてみたら?」
と勧められた。

私は一人で病院へ向かった。がん検診。英語圏での本格的な診察に内心この時はまだまあ、何でもない事を確認できればそれでいいや』と楽観的でもあったように思う。

そんなことよりも、医療関連の英語を一人で聞き取れるかと言うチャレンジ精神さえもあったのだ。


がん宣告

しかし、いざ検査結果を聞く日が近づくと心がざわめき始めた。
どうしても一人で行く勇気が出ず、友人二人に付き添ってもらった。
予約時間に到着したのに、なんと待ち時間は6時間!
付き添ってくれた友人に感謝でいっぱいだ。

そして、その時が来た。診察室で医師の説明を聞いたとき、
私の耳に残った言葉は、たった一つだった。

Cancer” ※癌

その英単語だけが、頭の中で何度も反響していた。

聞き間違いではないかと思い、カナダ人の友人に確認した。
彼女は大事な内容をメモに書き留めてくれた。

それでも現実は変わらない。

私の検査結果は、癌だった。


夜の公園と帰国までの事

その夜、ルームメイトのジュリーに事情を話した。

「癌だった。
だから、日本に帰らなければならないかもしれない。」

ジュリーは静かに頷き、私の話を最後まで聞いてくれた。

そのあと、私は一人で家を出た。

近くの公園のベンチに腰を下ろし、ただ夜空を見上げていた。
昼間あれほど賑やかだった街が、別の場所のように静まり返っている。

これから自分はどうなるのだろう。

夢だった海外生活は、ここで終わってしまうのだろうか。

答えはどこにもなかった。

ただ、胸の奥に重たい絶望だけが広がっていた。


それから手術の日程が決まり、三月三十一日、オーストラリアで最初のがん摘出手術を受けることになった。

医療の説明も、手続きも、すべて英語。
通訳を希望したものの、「必要ない」と判断されてしまった。
全身麻酔の時だけ、日本語の通訳が入ってくれた。

不安は拭えないままいつの間にか眠りにつき、私の手術は終わった。
目を覚ますと友人が手を握ってくれていた。

私は冗談で「手術痛かったよ~」と出来るだけ笑ってみせた。
友人は「麻酔効いてるんだから痛くないでしょ」といつもの笑顔を返してくれた。

入院は一週間ほど。
病室は十四階の個室だった。数時間ごとに痛み止めの注射を打たれる。
でも不謹慎ながら、時々びっくりするほどのイケメン看護師が担当してくれるのでドキドキした。
こんな時でも、乙女心を持っている自分が少し可愛らしくも思えた。

そして、驚いたのは友人たちの優しさだった。

毎日のように誰かが見舞いに来てくれた。
時間をずらして訪れてくれる人もいれば、ギターを持ってきて演奏してくれる友人もいた。日本では考えられないこと。

気がつけば、窓際は友人たちが持ってきてくれた花でいっぱいになっていた。
看護師からは「もう花瓶がないからお花は遠慮してもらってね」と笑われるほどだった。

美しい光景。遠く遠くまで見える景色。

けれど、友人たちが帰ったあとの病室は、急に静まり返る。
その静けさの中で、私は何度も涙を流した。夜になれば誰も来てはくれない。

そしてもう永住権を目指す夢もおそらく叶わないのだと、絶望感にさいなまれていた。


がん宣告のあとも、私はバイオリンのレッスンに通い続けていた。
絵に描いたような素敵な自宅でのレッスン。
講師は玄関を開けるといつも螺旋階段からシャムネコを抱っこして優雅に降りてきた。

人生はじめてのバイオリンレッスンがオーストラリアでだなんて、少し贅沢な気持ちにもなった。

それから間もなくして帰国が決まり、最後のレッスンの日。
これまでのレッスン料をすべて支払いたいと先生に申し出た。

しかし先生は、静かに首を振った。

「あなたは本当に真面目にレッスンを受けてきました。課題は全て完ぺきにこなし、こんなに一生懸命な生徒に出会った事はありません。だからお金はいりません。」

そして、こう続けた。

「もし気になるなら、そのお金をいつかバイオリンのメンテナンスや、演奏するときのドレスに使ってください。それが私の望みです。」

胸がいっぱいになった。

なんて恵まれているのだろう。
そう思わずにはいられなかった。


歌のレッスンは、最後のライブを終えたあと続けることはなかった。
その頃の私は、歌うだけの気力は完全に失われていた。

進学の準備も進めていた。
けれど、状況は大きく変わってしまった。

こうして私は、日本へ帰国することになる。

夢を抱いて始まったオーストラリアでの生活は、
思いもよらない形で終わりを迎えようとしていた。